文学百景 其ノ一『銀の匙』
文学百景 其ノ一
中勘介『銀の匙』岩波文庫
幼い日の記憶 circo
言葉を覚えたばかりに、ありもしない記憶が甦る。語り手は、ときに、託けられたかのように文を綴る。綴られた物語は預言でありながら、自ら宣教する。物語の登場人物は、感情を消費するための道具としてうつせみを挺する振りをして、読者をおびき寄せ、手を掴んだかと思うと、政治的なまでの大演説を打ち始める。一体に、耽溺と解釈を声高に要求する小説は多い。
もって数十年の儚い人間が一字一字言葉を刻む理由は、実利を除けば、眼前に立ち現れては消え去る世界をどこかに記録したいと願うからだろう。書物のなかの風景や物は文字による静物画である。「バッタが草むらから飛び出した」と書けば、そこに、バッタはいつまでも飛び出ている。それは動作の反復ではなく、決まった色、形を持たず、ただ意味として残される。表現が、事物の一時的な様態のスケッチであることを越えて、かつてそれを見た者のまなざしと現在の読者のまなざしが重なり、まるで永遠の相貌を見せるとき、その文は詩である。
『銀の匙』は、幼い日の風景や物を愛しむ穏健なフェティシストに与えられた慰藉である。